江戸遊学
安政五年二月、玄瑞は松陰のもとを離れ江戸に遊学した。江戸では各地の有志と交わり、尊攘運動に参画する。そんな折、国許より松陰が老中暗殺を画策しているという報を聞き、同じく江戸遊学中の高杉ら松下村塾門下生連名で、松陰に対し計画中止を促した。これに対し松陰から所見の違いから絶交を言い渡されてしまう。
その後、帰藩するが、松陰は江戸送りにされ、安政六年十月処刑されてしまうのだった。
尊攘の志士
松陰処刑の後、玄瑞は師の志を継ぐべく奔走し、松下村塾門下生の中では、他に先んじて志士としてめざましい活動をはじめる。
そのころ長州藩は長井雅楽が起案した、ほぼ公武合体説といえる「航海遠略策」を藩是として、さっそうと公武の周旋に乗り出していた。長州藩主毛利敬親は当初、この長井の策を幕府に藩論として提出して、幕府を喜ばせたのであったが、玄瑞は桂小五郎と共に、これに猛反対した。藩外においても薩摩の西郷吉之助らの権謀家が朝廷にまで手をまわし、反長州の画策につとめていた。玄瑞は長井雅楽に対する弾劾状を提出するなどして、対決姿勢を貫いた結果、藩はこれを引っ込めて「即今攘夷」を藩論に掲げるのだった。
「航海遠略策」を起案した長井雅楽は、ひとり矛先を向けられる形で謹慎処分となり、翌年二月、自宅で腹を切り無念の死を遂げたのだった。
英国公使館焼き討ち事件
その後、玄瑞は、上海帰りの高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)らと英国公使館の焼き討ちを決行する。
最初の襲撃目標は横浜のアメリカ公使であった。京より戻ってきたばかりの玄瑞はこの計画を無謀とし、晋作と激論を交わす中、晋作は激興し、太刀に手を掛けようとした。その時、襲撃費用の調達に掻け回っていた志道聞多が帰ってきた。この言い争いを見た聞多は、「わしが血のにじむ思いで百両作ってきたというに、酒をくろうて言い争いなんぞしおって」と、手当たり次第に徳利、杯、皿を投げつけ大暴れしたのだった。これには玄瑞、晋作も聞多をとりおさえることとなり、一件落着の形となった。
しかし計画はあくまで決行で、玄瑞も行を共にする。玄瑞には、自説は率直に述べるものの晋作のような頑固さが無く、最後には大勢のおもむくところにしたがう、といういさぎよさがある。この玄瑞の性質は彼の人生の最後においても表れ、それがための悲劇がやがて訪れることとなる。
結局、当初の目標のアメリカ公使襲撃は事前に計画が漏れ、次の目標を品川御殿山の英国公使館に定めた。彼らは焼玉を使って、幕府が八万両の巨費を投じた建築物を一夜にして灰にしてしまった。この建物は引渡し前で直接、英国に被害を与えたわけでは無いが、長州尊攘派による攘夷活動の火蓋を切った事件であった。
攘夷への奔走
文久三年になると玄瑞は、攘夷親征の第一段として天皇の攘夷祈願の行幸を提唱し、三月十一日の加茂神社、次いで四月十一日石清水八幡宮への行幸が実現した。この様に、攘夷熱が高まる中、幕府は朝廷より攘夷期限を迫られ、遂に五月十日を攘夷の期限と決定した。もちろん幕府に攘夷を迫った朝廷を裏から、あおりたてていたのは玄瑞ら長州藩士達であった。
玄瑞は勇躍帰国し、幕府の言質をとった以上、攘夷を決行するつもりでいた。玄瑞は下関の光明寺に陣取り、京より脱走してきた公卿中山忠光を盟主として迎え、光明寺党を結成した。そのメンバーは、入江杉蔵(九一)、吉田稔麿、山県狂介、赤根武人ら松下村塾門下生をはじめ、計五十人ばかりの攘夷集団である。
五月十日の攘夷期限の当日、下関海峡を通りかかったアメリカ商船ペンブローク号に対し、玄瑞は馬関における攘夷戦の口火となる一撃を放ったのだった。しかしながら、この無謀とも言える攘夷戦は、数度の交戦を通じ長州藩の惨敗に終わる。
苦境に立つ
その後、玄瑞は京都において活動し、長州を中心とした尊攘派の天下を確立させつつあった。そんな折、長州藩の情勢主導をよしとしない薩摩藩が公武合体派に立って、会津藩と手を結び、朝廷内部の尊攘派公家および、長州藩の追放に成功するのだった(八・一八政変)。
玄瑞は、七人の公家を守りつつ一旦帰郷するが、その後、京との間を行き来し、潜行活動を続け、藩主父子の濡れ衣を晴らすべく努力した。しかし政変後、京では尊攘派浪士達の狩り出しに新撰組が登場し、浪士達が復権を目指し集会中の池田屋を襲撃したりと、長州藩は次第に苦境に立たされてゆくのだった。
京へ
政変後、藩内は久留米神官真木和泉らの上京進発論と周布政之助、高杉晋作らの自重論とに二分されるようになっていた。しかし、次第に藩内での進発論の勢力が多勢を占めるようになり、福原越後、国司信濃ら三家老による率兵上洛に決定するのだった。
京にいた玄瑞は当初、高杉らと同様、進発には反対であり、来島又兵衛ら急進派の説得の為、帰郷するのであったが、事態の推移からか、あくまで嘆願に努めるという立場で、再び京へ向かった。前述したとおり、自己主張はするものの、最後には大勢のおもむくところにしたがう、という玄瑞の性質が、ここで表れてしまうのだった。
望まざる戦い
相次いで挙兵上洛した長州軍は京都内外に陣取り、藩主父子と五卿の赦免と入京許可、そして攘夷の国是確立を武力を背景にしつつ朝廷に嘆願した。これに対し、朝廷は、あくまで長州勢の退去を命じたのだった。
玄瑞は山崎の天王山付近に陣営を構え、あくまで嘆願の立場で、武力進撃は望んでいなかったのだが、その意に反し、元冶元年七月十九日早朝、長州勢は御所に向かって進撃し、警護の諸藩兵と砲火を交えたのであった(蛤御門の変)。
志半ば・・・
御所周辺における激戦の中、戦う以外、術を無くした玄瑞は、重症を負い、鷹司邸において、同門の入江杉蔵(九一)らとともに自刀し、その防長第一流の才を志半ばで散らしたのであった。玄瑞、二十四歳二ヶ月の短い生涯であった。
久坂玄瑞とは
前述したとおり、松陰は玄瑞を門下第一等の人物として評価し、「天下の英才」と賞賛している。あの西郷隆盛も明治後、長州の客人を見る度、「お国の久坂さんが生きておられれば私のような者がこのような大きい顔をしていられません」と言った程である。
確かに、玄瑞が維新後も生きていれば、明治政府内でその辣腕ぶりを発揮したに違いない。しかし玄瑞の評価はその「才」のみにある訳ではなく、玄瑞の人となりを示す松陰の次のような言葉がある。「実甫(玄瑞)は高らかに非ず。且つ切直に逼り、度量窄し。然れども自ずから人に愛せらるるは、潔烈の操、これを行るに美才を以ってし、且つ頑質なきが故なり」。玄瑞は人に率直に発言し、度量が狭いように見えるが、事に対し純粋かつ一途であり、また「頑質」が無きがゆえ、人望を集めることが出来る、としている。
ある意味、人望厚く、事に一途でありすぎた為に、その死を早めたと、言えなくも無い。
久坂玄瑞と高杉晋作
玄瑞は自身が尊攘活動に奔走中の折、高杉晋作の気ままな行動にも、最大の理解者として、「晋作のような有識者は、何年か後に大きな仕事をするのだ」と、見守り続けた。言わば、以降の高杉晋作の活躍のさきがけとして久坂玄瑞は存在したのだと、言えるだろう。
完
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