志士達の故郷


 志士達の故郷(金子重之助は萩に隣接する阿武郡出身)、萩は山口県北部に位置し、今もって江戸時代の町並みを残す風光明媚な街である。萩の歴史は、西暦1600年の関が原の戦いで西軍総大将に担ぎ上げられた毛利輝元が敗戦後、周防、長門の二カ国に減封され、その居城をこの地に置いた時に始まったといってよい。それ以前は、静かな漁村であったという。毛利輝元は中国地方一帯を一代で領地下に収めた覇王、毛利元就の孫にあたる。関が原の戦いでは、東軍の工作により輝元は大阪城を一歩も出られず、また毛利一族の吉川広家は東軍と内通し一発の銃弾も放たず、さらに小早川秀秋は戦場で突然、西軍に反旗を翻し、西軍は敗れたのだった。良くも悪くも毛利一族の同行が関が原の戦いを決したと言えよう。

 毛利一族が、それぞれが独自の行動を取った結果、東軍の勝利を導いたことは、とりもなおさず元就の教えによる部分が大きい。元就は子らに、これ以上の領地拡大は求めず、子々孫々まで、毛利を潰さぬようにと、言い聞かせた。その結果、それぞれが良かれと思い、また毛利を存続させる道を模索しつつ、行動に出たのだった。但し、小早川秀秋だけは、ちょっと違うだろう。彼は、小早川家頭首だが、純粋な毛利一族ではない。とにかく、敗者となった毛利は存続の危機を迎えていた。家康は毛利家を潰し、功のあった吉川広家に周防、長門二国を収めさせようとした。広家はこれを辞退し、本家を潰さぬように家康に願い出た。そして、毛利家の存続が認められ、その領地は中国地方一帯の百二十万石から、周防、長門の二カ国三十六万九千余石へと減封されたのであった。

 周防、長門二国に押し込められた毛利輝元は当初、大内氏の昔を思い山口を主城にしようとした。ところが、幕府は「敗者の分際で表街道を主城にすることはならぬ」と、ことさらに不便な日本海側の萩に行くよう命じたのだった。以後、文久三年(1863年)に藩庁が山口に移されるまで、萩は二百六十年間にわたって防長両国の城下町として、栄えることとなる。萩は、阿武川の流れが松本川、橋本川に分岐した三角州を形成しているところにあり、天然の要塞と化している。萩城は、日本海に突き出した指月山の麓にあり、攻める側から見ればこれほど責めにくい城はないのではと、思える。

 関が原の敗戦により、毛利は小さくなってしまった。毛利輝元は百二十万石もの領地の大家臣団を養いきれぬと思い、「とてもやってゆけない。このうえは大名をやめたい。」と、ヒステリーを起こしたという。それでも、中国地方各地に散在する家臣団のほとんどは輝元についてきた。輝元は養いきれないので、主従関係を切るよう促したが、家臣達は無禄でもいいからと、泣きながらついてきたという。この時に、中国地方一帯から多様な人材が萩に集まってきたと言えよう。高杉晋作の家も元就以来の家臣で、この時に萩へ移ってきた。このように当時、各地より集まった家臣団の子孫達が幕末期に活躍し、幕府を倒してゆくのである。何か、運命じみたものを感じずにはいられない。

 明治以後、萩は経済発展から取り残された反面、街の変貌は最小限にくいとめられ、城下町の面影を今も残している。夏になると、街には、明治期に氏族たちが植えたという夏みかんが、たわわに実り、城下町を色どっている。

                       

                                      完

田床山から萩の街を臨む 

萩市街地図

その他、萩市風景


萩城跡



幕末期の萩城



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