百姓牢へと
四月、松陰と重之助は江戸に護送され伝馬町の獄に入れられた。伝馬町の獄では二人は別々に収容され、重之助は藩籍を離れているので、身分の低い者を収容する無宿牢に入れられ、その後、百姓牢に入れられた。
伝馬町の獄には、既に逮捕されていた、佐久間象山がいて、取り調べが行われていた。松陰は、あくまでも密航計画は自分一人で画策し、象山には関係が無いことであり、また自分が煽動したので重之助がついてきた、と言い張った。象山もまた、堂々とした態度で、優秀な青年の海外見聞が日本にとって必要、急務であると主張して、幕府の姑息を責めたのだった。
この間、百姓牢の重之助の身体は日々、衰弱の一途をたどっていた。
国許へ
九月幕府は松陰、重之助に国許での蟄居を命じた。象山も同罪であった。松陰と重之助は唐丸籠で萩に護送された。
昨日までは彼等は同じ同士であり、むしろ頑健な肉体をもつ重之助の方が籠での護送くらい何でもなさそうではあるのだが、二人の間には大きな開きが出来てしまっていた。日々、昂然としてゆく松陰に対し、重之助は半年余りの牢生活に弱りはて、加えて治して来たはずの下痢を再発させてしまっていたのである。
惨状
護送中、宿舎も宿の土間に置かれ籠の中ですごすという酷い扱いであった。特に、身分の低い重之助に対する扱いは惨酷で、下痢で苦しむ中、用便の為、籠から出ることも許されず、当然衣服は汚れ、悪臭を放ち、護送の人間達の扱いはいよいよ冷たくなっていく。重之助は着替えを頼むのだが、護送の人間達は面倒なのでそのままにして先を急ぐのだった。
日々、重之助の参状は目をおおうばかりとなり、松陰が護送の役人に重之助の着替えを頼むのだが、「罪人の指図は受けぬ」と、応じようとしない。松陰は「武士の情けを知らぬのか」と激怒するも、遂には、自分の着物を脱ぎ役人に渡し、「金子に着せてくれ」と、言った。
旧暦の九月は初冬に近い。重之助は「先生を凍えさせて自分だけが着用できませぬ」と、頑として、松陰の着物を受け取ろうとはしなかった。
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