長崎にて豪遊?
翌文久二年正月、上海行きの幕船千歳丸は品川沖を離れ、次いで長崎に立ち寄った。長崎では百日間も足止めされ、その間晋作は、藩から渡航に際してもらった金で豪遊を繰り広げ、またなじみの芸妓を身請けしてそばに置いたりした。藩の金で買い取ったこの芸妓は、上海出向時には、また他に売り払ったというから、何ともあきれた男である。
しかし、この百日間、晋作はただ酒と女にうつつをぬかしていただけではなかった。長崎在住の外国人を訪ねて世界の情勢を聞いたり、また長崎の貿易状況を調べたりと、この男、ただの放蕩児ではなかったのだ。
上海
晋作が上海で見たものは、我が物顔で市街地を歩く外国人と、それを避けるかの如く、こそこそ逃げ隠れする清国人の姿であった。アヘン戦争の敗戦により半植民地化した上海のこうした光景を目の当たりにした晋作は、これは対岸の火ではなく、日本でもこういう事態に見舞われない保証は無いと、危機感を募らせるのだった。
晋作は上海滞在中、外国公館を訪れて西洋の武器を見学したり、また半植民地化した状況の清国人の意見をきくなど精力的に行動し、時勢への認識を深めていった。
こうした上海渡航を通じて、晋作は今まで目覚めきれずにいた心がやっと目覚めたのか、父親の束縛を断ち切って、政治運動に身を投じてゆく決心をするのだった。
防長割拠論
上海から戻った晋作は、藩の要人らに清国の惨状と日本の危機を説き、外国の侵入に備えて藩主は帰国し、また幕府への対決姿勢をとるよう声高に意見した。いわゆる晋作の「防長割拠論」である。
だが、この割拠論に耳を貸す者はなく、悲憤のあまり晋作自らが「狂挙」とよぶ、最初の亡命騒ぎを起こすのだった。
その後、江戸に舞い戻った晋作は、十二月、久坂玄瑞、伊藤俊輔らと共に、英国公使館焼討ち事件を起こす。この建物はまだ引渡し前で、直接英国に対し被害を与えたわけでは無かったが、ヒュースケン暗殺、東禅寺事件、生麦事件に続く、この攘夷事件に、幕府は次第に苦境に追い込まれてゆくのだった。
改葬
翌文久三年正月、桜田の藩邸を出た晋作ら一行は、小塚原の刑場に向かった。師松陰の遺骸を掘り出して、世田谷若林村の大夫山に改葬しようというのだった。掘り出した遺骸は三年の歳月の間に白骨化し、これを見た晋作は絶句した。松陰処刑時、晋作は江戸にはおらず、松陰の血まみれの首を洗い、裸の松陰に襦袢を着せ埋葬したのは、桂小五郎、伊藤俊輔らである。そのため、この改葬は晋作自らの手で執り行いたかったのであった。
刑場を出た晋作一行が上野の三枚橋にさしかかった時、「まんなかをとおれ」と馬上の晋作は叫んだ。三枚橋の中央は将軍が東照宮に参詣するときに通る御成橋で、将軍以外わたることはできない。橋役人が「お留め橋としらぬのか」と、叫んだ。晋作は、「知っておるわ。これは勤皇の志士吉田松陰先生のご遺骸である。勅命をいただいてまかりとおる。無用のとめだてをするならば・・・」と、凄みをきかせて槍の矛先を役人に向けた。役人が後ずさりするすきに、一行は御成橋をわたり終えてしまった。これも師松陰を殺した幕府への仇討の一種と考える晋作であった。
東行?
三月、晋作は京都に呼び出され学習院御用を命ぜられた。晋作は相変わらず、自論の割拠論を説くのであったが、藩の要人らには受け付けられず、十年間の暇願いを出すのだった。晋作の良き理解者、周布政之助は、これをしぶしぶ許可した。
晋作は髷を切って丸坊主となり、「西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらむ」と、一首を詠じて、東行(とうぎょう)と自らを号した。
その後、京都退去を命ぜられ、萩に帰ると、菊屋横丁の実家には帰らず、松本村の小屋に住みついた。この小屋で妻、雅と共に、ひとときの静かな生活をおくるのだった。
奇兵隊
晋作が隠棲している間、長州藩は攘夷に向かって本格的に邁進する。幕府が朝廷に対し約束した攘夷期限五月十日には、下関海峡を通りかかったアメリカ商船ペンブローク号に砲弾を撃ち放った。その後、次々と、海峡を通る外国船を砲撃し続けたが、六月に入ると戦況は一変、アメリカ、フランスの報復攻撃を受け、惨敗した。この惨敗に緊張と恐怖に包まれた山口政事堂では重臣らが対策を講じた結果、名があがったのが晋作であった。
呼び出された晋作は藩主に、何か策はあるかどうか聞かれ、こう言った。「有志の士をつのり、一隊を創立し名づけて奇兵隊といわん」。晋作は「志ある者は集まれ」と民衆に呼びかけ、身分を問わず召集し、我国近代的軍事組織の原型と言える奇兵隊を創設したのだった。
奇兵隊の理念とは
奇兵隊の理念は身分を問わず、専ら力量を貴ぶというもので、そのような組織は過去に例がなく、新しい発想である。この奇兵隊構想とつながるものは、松陰の「西洋歩兵論」であり、晋作は松本村に隠棲中、この松陰の著作を読んだものと思われる。これは近代兵器で武装した外国軍と戦う方法として、「我国固有の短兵接線を以て敵にあたる精悍剛毅の者を集めた奇兵が必要である」と、している。
このようにして、奇兵隊のような藩内挙げての軍事組織を作りだしたことにより、晋作が主張し続けてきた割拠論の実現に大きく近づいたのだった。そして、やがてこの奇兵隊を代表とした民衆の力により倒幕を実現するに至るのである。
白石正一郎
奇兵隊創設に際し、その資金を全面的に出したのが、下関竹崎町の回船問屋小倉屋主人、白石正一郎である。白石は馬関における尊攘志士で世話にならない者はなく、藩内のみならず、藩外の脱藩浪士でさえも面倒を見た。晋作はこの白石を長州回天事業における最大の功労者であるとしている。白石は晋作に惚れ込み、とめどなく金銀をつぎ込んでいった。そのため、維新前後にはほとんどの家財を使い果たしたという。
維新後、白石は赤間神宮の初代宮司となり、明治十三年六十九歳で没している。
初代奇兵隊総督
初代奇兵隊総督となった晋作は、同時に新知百六十石を給せられ藩の政務座役に任ぜられた。奇兵隊は順調に成長し最盛期には六百名ほどになった。
その後、奇兵隊の成功に刺激を受け多くの諸隊が各地で結成されていった。晋作の構想では、これを機に長州一国を強大な軍事大国にしたてあげ、外圧をしのいだ後、そのすべてを倒幕一点に傾けるというものであった。しかし、晋作の思いとは裏腹で、藩内において奇兵隊と藩の正規軍との間で、いざこざが絶えず、教法寺における傷害事件の責任をとるかたちで、晋作は奇兵隊総督の任を解かれることとなる。
この間、京では八・一八政変が起こり、長州藩は窮地に立たされるのであった。
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