アクセスカウンター

高杉晋作





 導入

 高杉晋作は同門の吉田稔麿が称したように、鼻ぐりの無い暴れ牛の如く自由奔放かつ、迅速な行動力と決断力で、幕末動乱の世を疾風の如く駆け抜けた伝説の革命児である。久坂玄瑞と並び村塾の双璧と称された晋作を松陰は、「識見気魄他人及ぶなく、人の駕御を受けざる高等の人物なり」と、評した。

 松陰の死後、晋作は、その比類無き能力を存分に発揮し、倒幕への筋道を築いてゆくのである。しかしながら自身は明治の世を見ることなく、その波瀾に満ちた短い人生を終わらせるのだった。

生い立ち

 晋作は天保十年八月二十日、萩菊屋横丁で萩藩士高杉小忠太の長男として生まれた。高杉家は元就以来の毛利家家臣であり、二百石の上士の長男として晋作は大事に育てられた。

 父小忠太は晋作誕生の頃、藩の小納戸役を勤め、役柄にふさわしく謹厳実直の人であった。父だけではなく、高杉家は代々まじめで、おとなしい保守的な家系であり、ここから晋作の如き人物が出たのはある意味奇跡に近い。

幼少時代

 子供時代の晋作は、高杉家の一人息子として周囲の溺愛を受け、自然わがままに育っていった。加え、負けん気も人一倍強く、その性格は終生変わることは無かった。

 十歳の時、天然痘を患い、その影響からか病弱な体質で、しかも小柄で痩せていた為、身体的コンプレックスが強かったようである。少年期は学問よりも剣術に励んでいたのは、この身体的コンプレックスを克服せんが為かと、考えられる。

松陰へ入門

 晋作が学問に身を入れるようになるのは吉田松陰に出会ってからである。松陰と出会い、その強烈な感化を受けたことが、晋作の生涯を決定したと、言えるのだが、最初は松陰に入門する事には、戸惑い気味であった。何故ならば、謹厳実直の父小忠太にとって、松陰の思想教育は危険極まりないものであり、松陰への師事を認めなかった。また晋作も晋作で、父に逆らうことは出来ない性分であった。久坂玄瑞らのすすめで村塾門下生となって以降も、そのことを父には告げず秘密裏に松本村へ通っていたようである。

       

高杉晋作

高杉晋作誕生地




村塾の晋作

 入門後の晋作の学問の進歩はすさまじく、また学問のみならず、言動もますます優れたものとなり、塾生の間で頭角を現すようになっていた。

 いち早く晋作の優れた点を見抜いた松陰は、晋作の競争心をあおるが如く教育を施したのであった。競争相手は松陰が「天下の英才」と称した、晋作の幼な友達の久坂玄瑞であるから、負けん気の強い晋作は猛然と学問に挑んでいったのだった。彼は、「あのときほど夢中になったことはない」と、後年述懐している。

 このような二人に対し、松陰は競争心をあおりつつも、互いに優れた点を認め合い協力していくよう促すのであった。こうして、玄瑞が「暢夫(晋作)の大識見にはかなわんなあ」と、言うと、「いやあ、やっぱし、おぬしの才は当世一じゃ」と、晋作が言い、二人は互いに認め合うようになった。これこそ、松陰が望むところであった。

遅ればせながら

 久坂玄瑞をはじめ門下生達が次々と、江戸遊学に旅立って行く中、晋作は自宅謹慎同様の姿でひきこもり、夜こっそり自宅を抜け出し村塾へ通ったりしていたが、祖父の死を契機に今まで晋作を押さえていた楔が取れつつあった。そして、安政五年七月、晋作も遅ればせながら江戸遊学に旅立っていったのだった。

松陰の死

 安政六年五月、松陰が江戸送りになった時、遊学中の晋作は松陰の為に、金員の差し入れなど献身的に奔走した。しかし松陰との接触を心配した父の画策により、晋作は帰国の命をうける。

 そして、帰国後しばらくして松陰処刑の報が入るのであった。晋作は、この報を聞くや、自然に師がいるはずもない松本村へ向かって歩き出した。途中、松本橋付近に来たとき足がとまり、松本川の川面を眺めていると、ふいに涙が込み上げてきた。晋作は松本橋の欄干につかまり子供のように大声で泣いたという。

 晋作はこの時の悲憤の思いを次のように述べている。「ついにわが師は幕吏の手にかかって殺されてしまいました。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討たずにはおかないつもりです」。晋作、倒幕への決心を固めた瞬間であった。

現在の松本橋付近




きまぐれ

 その後、しばらくして晋作に縁談話が持ちあがり、井上平右衛門の娘、雅と結婚した。

 この頃、松陰の仇を討つべく決心した晋作であったが、それをどのように行動に移すべきか、わからずにいた。とりあえず自ら希望して、藩の軍艦教習所に入り操練術の習得に励んだ後、藩の軍艦丙辰丸(へいしんまる)による遠洋処女航海の乗組員となり江戸へ向かった。

 途中、永い航海にあきあきし、また船酔いにも悩まされた晋作は江戸に着いたとたん「船は自分に向いていない」と、勝手に下船し、やはりもとの文学と剣術の修行に切りかえたいと、藩政府に願い出たのだった。晋作乗船の為、骨をおってくれた艦長はじめ周囲の人間達は、この晋作のきまぐれに開いた口がふさがらない思いであった。

旅へ

 江戸での勉学を願いでた晋作であったが、藩は彼のわがままを許さず、帰国を命じた。晋作は、今度は東北をまわり剣術修行をしながら帰国したいと、願いでて、藩はこれを許した。

 こうして、帰国までの五十日間、各地を回って、剣術の試合及び、学者を訪ねて時勢を論じたりと、有益な日々を送ることができたのだった。旅を通じて自分の学識の浅はかさを思い知った晋作は帰国後、三年間自宅にひきこもって読書をすると言い出した。周囲は、また晋作のきまぐれがはじまったと、思うのだった。

長井を斬る?

 文久元年、晋作は江戸湾警衛の為、番手として再び、江戸に出る。江戸に着くや桜田の藩邸では久坂玄瑞を中心として長井雅楽追い落としの策が論議されていた。そのころ長井の唱えた「航海遠略策」が長州藩の藩是となっており、水戸や薩摩の尊攘派志士達の連中に対し、長州尊攘派代表格の桂小五郎、久坂玄瑞らは肩身の狭い思いであった。

 晋作は父親の束縛から抜けきれずにいるのか、玄瑞らの尊攘運動に同調する様子は見せないでいた。そうした状況下での長井追い落とし論議の中、突然、本気かどうか晋作は「長井雅楽を斬る」と、言い出した。これを聞いた藩の要人周布政之助は、晋作の暴挙を止めるべく、日本より追い出す為、上海渡航を晋作に促すのだった。晋作はあっさりと上海渡航を承諾した。このように言行の一致しない晋作を周囲は冷ややかな目で見るのだった。

桂小五郎




長崎にて豪遊?

 翌文久二年正月、上海行きの幕船千歳丸は品川沖を離れ、次いで長崎に立ち寄った。長崎では百日間も足止めされ、その間晋作は、藩から渡航に際してもらった金で豪遊を繰り広げ、またなじみの芸妓を身請けしてそばに置いたりした。藩の金で買い取ったこの芸妓は、上海出向時には、また他に売り払ったというから、何ともあきれた男である。

 しかし、この百日間、晋作はただ酒と女にうつつをぬかしていただけではなかった。長崎在住の外国人を訪ねて世界の情勢を聞いたり、また長崎の貿易状況を調べたりと、この男、ただの放蕩児ではなかったのだ。

上海

 晋作が上海で見たものは、我が物顔で市街地を歩く外国人と、それを避けるかの如く、こそこそ逃げ隠れする清国人の姿であった。アヘン戦争の敗戦により半植民地化した上海のこうした光景を目の当たりにした晋作は、これは対岸の火ではなく、日本でもこういう事態に見舞われない保証は無いと、危機感を募らせるのだった。

 晋作は上海滞在中、外国公館を訪れて西洋の武器を見学したり、また半植民地化した状況の清国人の意見をきくなど精力的に行動し、時勢への認識を深めていった。

 こうした上海渡航を通じて、晋作は今まで目覚めきれずにいた心がやっと目覚めたのか、父親の束縛を断ち切って、政治運動に身を投じてゆく決心をするのだった。

防長割拠論

 上海から戻った晋作は、藩の要人らに清国の惨状と日本の危機を説き、外国の侵入に備えて藩主は帰国し、また幕府への対決姿勢をとるよう声高に意見した。いわゆる晋作の「防長割拠論」である。

 だが、この割拠論に耳を貸す者はなく、悲憤のあまり晋作自らが「狂挙」とよぶ、最初の亡命騒ぎを起こすのだった。

 その後、江戸に舞い戻った晋作は、十二月、久坂玄瑞、伊藤俊輔らと共に、英国公使館焼討ち事件を起こす。この建物はまだ引渡し前で、直接英国に対し被害を与えたわけでは無かったが、ヒュースケン暗殺、東禅寺事件、生麦事件に続く、この攘夷事件に、幕府は次第に苦境に追い込まれてゆくのだった。


改葬

 翌文久三年正月、桜田の藩邸を出た晋作ら一行は、小塚原の刑場に向かった。師松陰の遺骸を掘り出して、世田谷若林村の大夫山に改葬しようというのだった。掘り出した遺骸は三年の歳月の間に白骨化し、これを見た晋作は絶句した。松陰処刑時、晋作は江戸にはおらず、松陰の血まみれの首を洗い、裸の松陰に襦袢を着せ埋葬したのは、桂小五郎、伊藤俊輔らである。そのため、この改葬は晋作自らの手で執り行いたかったのであった。

 刑場を出た晋作一行が上野の三枚橋にさしかかった時、「まんなかをとおれ」と馬上の晋作は叫んだ。三枚橋の中央は将軍が東照宮に参詣するときに通る御成橋で、将軍以外わたることはできない。橋役人が「お留め橋としらぬのか」と、叫んだ。晋作は、「知っておるわ。これは勤皇の志士吉田松陰先生のご遺骸である。勅命をいただいてまかりとおる。無用のとめだてをするならば・・・」と、凄みをきかせて槍の矛先を役人に向けた。役人が後ずさりするすきに、一行は御成橋をわたり終えてしまった。これも師松陰を殺した幕府への仇討の一種と考える晋作であった。

東行?

 三月、晋作は京都に呼び出され学習院御用を命ぜられた。晋作は相変わらず、自論の割拠論を説くのであったが、藩の要人らには受け付けられず、十年間の暇願いを出すのだった。晋作の良き理解者、周布政之助は、これをしぶしぶ許可した。

 晋作は髷を切って丸坊主となり、「西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらむ」と、一首を詠じて、東行(とうぎょう)と自らを号した。

 その後、京都退去を命ぜられ、萩に帰ると、菊屋横丁の実家には帰らず、松本村の小屋に住みついた。この小屋で妻、雅と共に、ひとときの静かな生活をおくるのだった。

奇兵隊

 晋作が隠棲している間、長州藩は攘夷に向かって本格的に邁進する。幕府が朝廷に対し約束した攘夷期限五月十日には、下関海峡を通りかかったアメリカ商船ペンブローク号に砲弾を撃ち放った。その後、次々と、海峡を通る外国船を砲撃し続けたが、六月に入ると戦況は一変、アメリカ、フランスの報復攻撃を受け、惨敗した。この惨敗に緊張と恐怖に包まれた山口政事堂では重臣らが対策を講じた結果、名があがったのが晋作であった。

 呼び出された晋作は藩主に、何か策はあるかどうか聞かれ、こう言った。「有志の士をつのり、一隊を創立し名づけて奇兵隊といわん」。晋作は「志ある者は集まれ」と民衆に呼びかけ、身分を問わず召集し、我国近代的軍事組織の原型と言える奇兵隊を創設したのだった。


奇兵隊の理念とは

 奇兵隊の理念は身分を問わず、専ら力量を貴ぶというもので、そのような組織は過去に例がなく、新しい発想である。この奇兵隊構想とつながるものは、松陰の「西洋歩兵論」であり、晋作は松本村に隠棲中、この松陰の著作を読んだものと思われる。これは近代兵器で武装した外国軍と戦う方法として、「我国固有の短兵接線を以て敵にあたる精悍剛毅の者を集めた奇兵が必要である」と、している。

 このようにして、奇兵隊のような藩内挙げての軍事組織を作りだしたことにより、晋作が主張し続けてきた割拠論の実現に大きく近づいたのだった。そして、やがてこの奇兵隊を代表とした民衆の力により倒幕を実現するに至るのである。

白石正一郎

 奇兵隊創設に際し、その資金を全面的に出したのが、下関竹崎町の回船問屋小倉屋主人、白石正一郎である。白石は馬関における尊攘志士で世話にならない者はなく、藩内のみならず、藩外の脱藩浪士でさえも面倒を見た。晋作はこの白石を長州回天事業における最大の功労者であるとしている。白石は晋作に惚れ込み、とめどなく金銀をつぎ込んでいった。そのため、維新前後にはほとんどの家財を使い果たしたという。

 維新後、白石は赤間神宮の初代宮司となり、明治十三年六十九歳で没している。

初代奇兵隊総督

 初代奇兵隊総督となった晋作は、同時に新知百六十石を給せられ藩の政務座役に任ぜられた。奇兵隊は順調に成長し最盛期には六百名ほどになった。

 その後、奇兵隊の成功に刺激を受け多くの諸隊が各地で結成されていった。晋作の構想では、これを機に長州一国を強大な軍事大国にしたてあげ、外圧をしのいだ後、そのすべてを倒幕一点に傾けるというものであった。しかし、晋作の思いとは裏腹で、藩内において奇兵隊と藩の正規軍との間で、いざこざが絶えず、教法寺における傷害事件の責任をとるかたちで、晋作は奇兵隊総督の任を解かれることとなる。

 この間、京では八・一八政変が起こり、長州藩は窮地に立たされるのであった。





脱藩

 八・一八政変、池田屋事件、蛤御門の変と続く、事件により長州藩は「朝敵」の汚名を着せられ、存亡の危機をむかえていた。これら事件により、吉田稔麿、久坂玄瑞、入江九一といった村塾四天王のうちの、三人までもが壮絶な死をとげたのだった。

 残る一人の晋作はというと、自宅の座敷牢に閉じ込められていた。事のいきさつは、政変後、藩内は京都に武装兵を向け、薩摩、会津を討たんとする過激論が渦巻いていた。晋作は藩主の命を受け過激論の先鋒者、来島又兵衛を説得するため三田尻へ向かった。又兵衛より「臆病者、新知百六十石を捨てるのが惜しいか」とののしられた晋作は、「臆病者でない証拠をお見せしよう」と、そのまま京に走った。つまり藩主への復命を放棄し、脱藩したのだった。京で桂小五郎に説得された晋作は帰国後、脱藩の罪で野山獄に投獄され、その後、自宅座敷牢に移されたのだった。

 ともあれ、これら事件により高杉晋作を失わなかったことは、長州藩にとって不幸中の幸いであったと、言えるだろう。

宍戸刑馬?

 蛤御門の変の後、幕府は「長州征伐」の勅命を受け、第一次長州征伐の準備を進めていた。また、八月五日には、四カ国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩の砲台を完膚なきまでにたたき、翌日には各砲台を占拠したのだった。第三代総督、赤根武人率いる奇兵隊は奮戦したものの結果、惨敗に終わった。

 その後、座敷牢から呼び出された晋作は連合艦隊との和議の交渉をするように、命ぜられる。八月八日、下関海峡に浮かぶ連合艦隊の旗艦を訪ね、クーパー提督と会見した。通訳として、伊藤俊輔、井上聞多がつきそっていた。晋作は藩の筆頭家老宍戸刑馬というふれこみで、旗艦におもむき、そのいでたちは黄色い一等礼服の烏帽子直垂姿であった。晋作の態度はイギリス公使の通訳官アーネスト・サトウによると「魔王の如く傲然として見えた」と、言い表している。

 連合国側との会談は計三回におよび、三回目に賠償問題が提出された。総計三百万ドルの支払いと、彦島の租借要求であった。晋作はどちらも頑強に拒絶し、攘夷は朝廷や幕府の命令でおこなったものであり、幕府より賠償金をとりたてるよう主張した。また、彦島租借については、これを許せば清国の二の舞になると思ったか、急に神代からの我国の歴史を講じはじめたのだった。晋作は相手を煙にまいたのか、クーパーは要求を引っ込めてしまった。だが実際は、彦島租借がイギリスの抜け駆けの要求であったため、簡単に要求を引っ込めたにすぎなかった。だが、この晋作の機転が、もし無かったとしたならば、関門の地に、香港の如き植民地が我国に存在していたかもしれない。

生きて大業の・・・

 馬関における脅威は去ったものの、幕府による征長軍は、いまにも国境にせまろうとしていた。藩内では幕府に恭順すべしとする保守派勢力が藩政を握り、急進派につらなる者への弾圧をはじめていた。

 晋作は政務座役を辞して萩に帰り閉居していたが、身の危険を察知して十月二十四日の夜更けに萩から脱出した。無駄死にをしないと、いうことが晋作の信条である。松陰が江戸伝馬町の獄にいたとき晋作への手紙のなかで自身の死生感についてこう書いている。「死して不朽の見込あらばいつでも死すべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」。晋作はこの松陰の教えに忠実に、自身の危険に際し逃げることを恥としなかった。

       

晋作が活躍した関門海峡

おまけの関門橋




筑前平尾山荘

 萩を抜け出した晋作は湯田へ行き療養中の井上聞多を見舞い、次いで二十九日下関の白石正一郎宅に入った。ここで筑前藩の中村円太に会い、海峡を渡って筑前にむかった。博多では筑前藩士月形洗蔵に会い協力を求めたが、筑前藩内においても左幕派がのさぼり勤皇党は身動きならない状況であることを聞かされる。

 次第に危険が迫りつつあった晋作は福岡城外にある平尾山荘に女僧野村望東尼(のむらもとに)を訪ね、身を寄せることとした。望東尼はこのとき五十九歳、かつて勤皇僧月照をかくまったこともある勤皇尼僧である。後、晋作の死を下関で見取った望東尼は、晋作を厚狭郡吉田の清水山に埋葬した。薩長連合成立後は三田尻に移り、断食をしつつ宮市天満宮に戦勝を祈っていたが、ふと病にかかり、晋作の死後、七ヶ月後の慶応三年十一月六日、六十二歳の生涯を閉じたのだった。

 晋作はこの平尾山荘で約十日間をすごしたが、その間、藩政府が三家老を切腹させ、その首級を幕府に差し出したこと、奇兵隊ほか諸隊にも解散命令が出たことなどの情報が入ってきた。晋作は長州に戻ることにした。

功山寺にて起つ

 下関に戻った晋作は、藩政を握る幕府恭順の「俗論派」政府を武力による打倒を唱える。十二月十五日深夜、赤根武人らの反対を押し切った晋作は功山寺境内で伊藤俊輔率いる力士隊、及び遊撃隊の僅か八十余名を以って挙兵する。晋作が最も当てにしていた奇兵隊の実権を握る山県狂介はこのときの挙兵には賛同していない。

 馬上の人となった晋作は、三条実美ら五卿の前で「今日より長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と、言うと、雪をけたてて下関を目指した。下関を占領した晋作は次に三田尻へ向かい藩の軍艦を奪うことに成功した。この成功を機に、奇兵隊をはじめとした諸隊がついに起ち、俗論派と対決すべく萩に向かって進撃を開始したのだった。

 諸隊軍は豪農、豪商の経済的支援を取りつけ、また当初は慎重論を唱えていた山県狂介であったが、大田・絵堂における激戦において、奇兵隊を率い、藩の鎮圧軍を見事撃退したのだった。また、晋作の命により、奪った軍艦で連日、萩城下に空砲を発し威嚇を続けていた。これにしびれを切らしたのか保守派内に内部分裂が生じ、俗論派は藩政府から退けられることとなった。こうして、「正義派」が復権し、藩を挙げて倒幕姿勢を固めてゆくのであった。

 この晋作の藩内クーデターは日本史上において重要な位置付けを持つ事件であると、言えるだろう。このクーデター以降、長州藩は倒幕へとひたすら邁進し、後の明治維新までの筋道を徐々に築きあげてゆくのである。

晋作、逃げる

 晋作のクーデターは成功し、諸隊は解散をまぬがれた。周囲は晋作を連合した諸隊の大総督にと、望んだが晋作は、これを拒否し外国に行く、と言い出した。そして伊藤俊輔とともに、イギリス商人グラバーに、外国行きを周旋してもらうべく長崎に向かった。ところがグラバーは二人を説得し、下関を開港するよう促した。

 晋作は考えを改め、早速、下関開港の準備に取りかかった。ところが下関はそのほとんどが長州藩の支藩である長府藩と清末藩の領地であった為、晋作は下関を本藩の領地にすべく画策した。しかし、この行為が両藩の藩士にもれてしまった為、晋作らは命を付狙われるようになったのだった。ここでも、晋作は逃げた。気ちがい連中にころされてはたまらないと、堺屋の芸妓おうのを連れ、船で伊予の道後に逃げたのだった。

       

平尾山荘

野村望東尼像

晋作挙兵騎馬銅像(功山寺)



リンク付の画像をクリックすると拡大画像を表示します




日柳燕石

 晋作は道後から、讃岐に入り金刀比羅宮に近い日柳燕石(くさなぎえんせき)の家にころげこんだ。燕石は子分千人を擁する博徒の大親分で松陰とも交際のあった人物である。この時、晋作をかくまったことが幕吏に探知され、以後四年間、獄につながれることになってしまう。燕石はこの行為について「長州の吉田寅次郎は、その生涯に三度の猛を発し、死んだと言うが、わしもこれで、一度だけ猛を発することが出来た」と、言ったという。

 その後、桂小五郎が長州に戻ったことを聞いた晋作は、五月の末、帰国する。桂の帰国により藩内の政局は活発化し、幕府との対決姿勢をより鮮明に示してゆくのだった。そして慶応二年一月二十二日、坂本龍馬らの立会いのもと、薩長秘密軍事同盟が成立する。

四境戦争はじまる

 慶応二年六月七日、四境戦争(第二次長州征伐)が開戦した。まず、周防大島沖に富士山丸以下の幕府艦隊があらわれ、艦砲射撃を加えて兵員を上陸させた。晋作は海軍総督を命じられたばかりであり、この報を聞くや丙寅丸(へいいんまる)にのり出撃した。船体は二百トンと小ぶりだが、いちおう蒸気船であり、晋作が長崎で独断で購入した船である。俗称オテントサマ丸という。

 十二日夜、晋作はこのオテントサマ丸で幕府艦隊に対し、夜襲をかけた。四隻の幕府軍艦は汽罐の火を落としており、そのなかをオテントサマ丸は縦横無尽に動き回り、撃ちまくった。幕兵は長州海軍の来襲に大混乱に陥った。その後長州の第二奇兵隊が島に上陸して幕軍を撃退したのだった。

小倉口の戦い

 晋作は大島口の攻撃の後、下関へとってかえすと、次に小倉口攻撃にとりかかった。小倉城には幕府軍総指揮官の小笠原長行がおり、この小倉口の戦況が四境戦争のかぎを握ると、晋作は考えていた。だが、小倉口に押し寄せる幕軍総勢二万、これに対し、晋作指揮する長州軍千人という絶望的な兵力差である。小倉の幕軍の背後には薩摩が目を光らせていたとはいえ、劣勢であることに違いはない。

 しかし、ここでもまた、晋作の奇襲策が功を奏すのである。十七日未明、晋作は軍艦で対岸の田ノ浦を砲撃させると、その援護のもと奇兵、報国の二隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫をしらみつぶしにつぶしたのだった。虚をつかれた幕軍はなすすべなく崩壊した。

 その後、一進一退を繰り返した小倉口の戦いも将軍家茂の訃報がもたらさられるや、小笠原長行は戦場を放棄し、諸藩兵も撤退を開始した。残された小倉藩は抗戦を続けつつも、翌月一日、自ら城に火を放ち、田川方面へ落ちていったのだった。炎上する小倉城天守閣をあおぎながら晋作は、倒幕への筋道がはっきりたったことを感じたという。

 他の戦線でも、芸州口では井上聞多、石州口では村田蔵六が諸隊を率いて優勢に戦い、八月二十一日幕府は征長戦の中止を決定したのだった。





東行庵

 九月四日、晋作は激しく咳き込んだあと血痰を吐いた。兆候は一年ほど前から、あらわれていたが、持病の肺結核が悪化してきたのだった。九月の終わりにはついに喀血を見た。

 十月下旬、療養に専念するため桜山の麓の家に移った。晋作はここを東行庵(とうぎょうあん)と名付け、おうのと二人で住んだ。晋作はまだ生きたかった。いじらしいばかりの養生ぶりを見せ、ひたすら体力の回復のみを願っていたという。

おもしろき こともなき世を ・・・

 慶応三年四月十四日、晋作の枕元には父母、妻妾、友人らがつめかけていた。その中に、かつて筑前に逃亡中、晋作をかくまってくれた野村望東尼の姿があった。望東尼は先年、玄海沖の姫島に幽閉されていたところを晋作らに救出され、白石正一郎宅にかくまわれていた。

 晋作は辞世の句を書き出した。「おもしろき こともなき世を おもしろく」と、ここで気力が尽き、筆を取り落とした。そこで、望東尼は晋作に代わりに下の句を付けてやった。「すみなすものは 心なりけり」。晋作は、「おもしろいな」と、微笑んだ・・・。そして、静かに息をひきとったのだった。晋作、二十七歳八ヶ月の生涯であった。

高杉晋作とは

 下関市東行庵にある東行顕彰碑に刻まれている伊藤博文の撰文である。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、 衆目駭然として敢えて正視するもの莫し。 これ、我が東行高杉君に非ずや」。晋作と共にわずか八十人で決起した藩内クーデターに最初から賛同し、晋作を最もよく知る人物と言ってもよい伊藤博文があらわした晋作像である。まさにすさまじいばかりの迅速な行動力と、決断力で動乱期を掻け抜けた晋作の風雲児ぶりがあらわれている。

 晋作は正に革命の実践者として生を受けたと言っていいだろう。自らも、「俺はぶっ壊すのは得意だが、新しい家を建てるのは得意じゃない」と、言っている。となると思う事は、晋作が維新後も生き続けていたら、どうしただろうか、ということである。周知の通り、明治政府は薩長出身者が大多数を占め、長州では桂小五郎(木戸孝允)、山県有朋、伊藤博文らが、その中枢にいた。晋作もその業績からして維新の三傑クラスのポストが用意されてても不思議はない。だが、仮に明治政府内に瞬間、いたとしても、いずれは西郷の様に下野して、奇兵隊残党と共に、政府に反旗をひるがえすか、または、政治のことはあい知らぬと、酒とおんなにうつつをぬかしているか、または、日本を脱出しているか、そんなところしか思い浮かばない。 まあ、いずれにしろ明治の世を見ることが無かったからこその高杉晋作であったと、今思えば言えるのだろう。

     完






志士達の春夏秋冬 目次へ

志士達の故郷へ