下田渡航事件
安政元年一月、ペリーが再び来航し、幕府はアメリカの要求するまま下田、函館を開港した。翌年、三月、松陰は、再度の海外渡航を企てる。海外を知り、日本の将来採るべき道を探ろうという、やむにやまれぬ決断であった。この時、松陰の計画を知り、強行に同行を迫ったのが、金子重之助である。重之助の情熱溢れる言葉に折れた松陰は、彼の同行を認めるのだった。
三月二十七日深夜、二人は小船で米艦ポーハタン号に乗り付けた。だが、松陰らの必死の面会要求にもペリーは、それに応じる事は無く、計画は失敗に終わるのだった。
その後、帰された二人は下田奉行所に自首し、通りに面した獄に入れられた。しばらくして、一人のアメリカ士官が獄の前を通りかかった。その時、彼はそこに死を覚悟し毅然たる姿勢の松陰を見るや、その姿に感動し、ペリーに報告した。ペリーは松陰らの救済を図ったのであったが、その時すでに江戸伝馬町の獄へ送られた後であったという。
江戸には二人を煽動したという事で逮捕投獄された師象山の姿があった。二人が米艦に乗りつけた小船が後、発見され、そこに証拠の品が残されていたのだった。
この松陰らの国禁を犯した大胆な行動はいちはやく海外に報じられた。フランスの新聞によると、「勉強のためアメリカへつれて行ってくれと、頼む青年を頭ごなしにはねつけ、また帰れば死刑になるとゆうけなげな申し入れに応じなかった米国提督の頑迷はじつになげかわしい」と米国を非難している。また、「ジーキル博士とハイド氏」を著した英国文豪のスティーブンソンが明治十五年に著した人物評論の中で、「このような広大な志を抱いた人々と同時代に生きていたことは、歓ばしいことである。宇宙の比率からすれば、わずか数マイル離れた所で、私が日々の課業を怠っている間に、吉田は眠気を覚まそうと自ら蚊にさされ、自分を責めさいなんでいたのだ」と、述べている。
歴史に「もしも」は無いのだが、もしも松陰らの渡航計画が、この時、成功していたならば、以降の日本史は現在あるかたちとは、大きくかけ離れたものとなっていたに違いない。松陰が、これ以降たどる人生は日本史に多大な影響を与えてゆくこととなるのである。
野山獄の松陰
国禁を犯した罪人となった松陰と重之助は、国許での蟄居ということとなり、籠で萩に護送されることとなった。師、象山もまた同罪となり信州松代へと送られたのだった。
萩へ着いた松陰は野山獄へ、重之助は岩倉獄へと獄を分けられた。野山獄には、女囚高須久子を含め11人の在獄者が独房に起居しており、彼等の多くは、それぞれが罪を犯しているとは言え、裁きで決まった年限を過ぎつつも親族から厄介払いされた形で、そのまま在獄しているのだった。
彼等は出獄出来るあても無く、希望を失っていたが、松陰入獄後、しばらくして獄舎は一変する。松陰は、読書ざんまい(在獄一年二ヶ月の間に六一八冊もの書物を読んだ)の生活をおくりつつ「孟子」の講義をはじめ、自身の体験談、世の情勢といった講義を囚人達に聞かせていた。ある時、優れた書風を有する富永弥兵衛に書の講座を開くことを促すと、やがて、富永はこれに応じた。次に松陰は、句を得意とする吉村善作に俳句の指導を提案した。これらの講座がいくつか出来あがり、獄舎はあたかも学生達の集う研究会の如く様相を呈してきた。このようにして、松陰は囚人達に、できることから皆ではじめようと提起し、互いに相手の優れたものを学び、教え合うという連帯感を築き上げたのだった。囚人達は次第に、生きる希望を取り戻したかのように、生き生きとするようになった。また司獄官の福川扉之助までもが松陰の弟子のようなものとなり、これに協力し、自身も廊下に正座して松陰の講義を聞くという具合であった。
獄中を福堂に変えたとも言える松陰は、在獄一年二か月の後、病気療養の名目で出獄した。その後、彼は藩政府と交渉し、囚人七人の釈放に成功している。他に類を見ない獄中教育の集大成をここに開花させたのだった。
松下村塾
出獄後、父の元での蟄居を命ぜられた松陰は、初めのうちは親戚の者達に対し講議を聞かせたりしていた。しばらくして、噂を聞きつけた近隣の若者達が集まるようになり、松陰は彼等に講義を行うようになった。これが、今に伝わる松下村塾である。松下村塾は最初、叔父の玉木文之進がはじめた寺子屋風の私塾であったが、その後外叔久保五郎左衛門、そして三代目として松陰が引き継いだのである。いずれも無報酬であった。
松陰は、身分や職業に拘らない平等感と人間の可能性に期待しつつ彼等に接したのだった。入門を求めてきた若者に対し、「師として充分に教えることが出来るかどうかわからないが、一緒に勉強しましょう」と、丁寧に挨拶したという。ここでの松陰は、単なる知識としての学問ではなく、理想の国家、正しい政治とはどうあるべきか、また人間としてどう生きるかを全身全霊を以って説いたのだった。
次第に弟子の人数が増え、翌年十一月、宅地内の小舎を改造して弟子たちの為の部屋を増築した。僅か八畳一室の小さなものだが、ほとんど弟子達と松陰の手作りのものである。師と弟子達が共に汗を流し、自分達の学び舎を作り上げてゆく光景を想像すると、現代教育には無い、理想教育の本質を垣間見るような気がする。
松陰は塾生に対し、「学者になってはいけない、人は実行が第一だ」と、よく言っていたという。机上の空論ではなく、自らが死線を踏み、その行動をもって築き上げた教えに、心を動かされぬ者などいなかった。ここで教えを受けた数多くの若者が師の志を引き継ぎ、幕末動乱の世に巣立っていったのである。
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