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吉田松陰





 導入

 幕末、ひとりの青年の壮大なる志が、大藩の意思を統一し、倒幕へと駆り立てていった。その青年こそ、松陰吉田寅次郎矩方(のりかた)に他ならない。 松陰は、教育者でありながら、類まれな行動家である。彼は、結果よりも行動を起こすことに重きを置くがあまり、彼の実践した幾多の行動には、理念と情熱が先行しすぎる感があり、計画性無き行動ととられることもある。しかし、己を欲せず、藩の為、国の為、またそこに暮らす人民の為に、信ずる道を死をも恐れず突き進んでいった姿は、彼の死をもってもなお、朽ちることなく人々の心に生き続けてゆくのである。

生い立ち

 松陰は、天保元年八月四日、長門の国、萩の松本村に下級藩士杉百合之助の次男として生まれた。幼名は虎之助。五歳で叔父吉田大助の養子となり、翌年、大助の死により吉田家を継ぐことになる。吉田家は、山鹿流兵学師範の家柄であり、松陰この時、有無もなく藩の兵学教授となる道が決まってしまった。このとき以来、まだ年端もいかぬ少年に対し、兵学教授となるべく英才教育がはじまるのであった。

幼少期

 松陰幼少期の教育を施し、松陰生涯の人格形成に多大な影響を与えた人物は、もうひとりの叔父、玉木文之進である。文之進の教育は、激烈そのもので、松陰の些細なふるまいに対し、毎日のように鉄拳制裁を加えたという。講義中に幼い松陰の顔を蚊が刺し、それを手で掻いたといっては殴り、正座中に膝が少し曲がったといっては殴った。それも拳固を固めて殴るのだから、松陰の頭はコブが絶えなかったという。正に一分の隙も見せぬ気魄で松陰に接したのだった。顔を掻く行為は、正に私的行為であり、学問中の私的行為を文之進は決して許さなかった。学問は、公であり、公より私を優先させることを非とし、それを幼い松陰に対し、体で覚えさせていったのである。松陰の私心の無い芯の通った人間性は、この幼少期の文之進による教育によって育まれていったと言ってもいいだろう。

 松陰は、よく堪え、よく学び、わずか九歳で藩校明倫館の兵学教授となった。そして十歳の時には藩主の前で講義を行うまでに成長するのである。

         

吉田松陰木像(疋田雪舟作)
[生前の松陰の面影を最も
色濃く残しているといわれている]

松陰誕生の地

玉木文之進旧宅




九州遊学へ

 松陰は、二十歳の時、家学研究にと藩に願い出て、九州遊学の旅にでる。九州遊学では、四ヶ月の期間で各地の著名な士を訪ね、交わった。中でも、平戸の葉山佐内を訪ねた時、左内は「実行のなかにのみ学問がある。いくら考えが正しくとも行動しなければ学問ではない」と陽明学の思想を説き、松陰はその教えに強く魅かれるのであった。この時が、松陰が今後、激烈な行動家としての道を歩むこととなる出発点であったかもしれない。

 この旅では松陰生涯の友、肥後藩士宮部鼎蔵とも出会うことになる。宮部鼎蔵は、後に松陰とともに東北旅行に同行した人である。他に、兄の仇を討たんとする江幡五郎が同行を求め、出発を赤穂浪士討入の十二月十五日と決めた。この時、藩の過書を得ていなかった松陰は、男子の一諾を重んじ、嘉永五年十二月十四日、一足先に藩邸を亡命し水戸に赴いた。そして次の日、彼等と共に東北旅行に旅立っている。当時、脱藩は重罪であり、この挙に及ぶ理由として様々な説があるが、やはり友との約束を誠実に守らんが為の挙であったと見るべきであろう。松陰は後に、この挙を「用猛第一回」と呼び、行動家松陰の出発点と呼べる行為である。ちなみに、宮部鼎蔵は、後の池田屋事件で会合中、新撰組に襲撃され重症を負い、自刀した。

第一回江戸遊学

 憂国の志士、吉田松陰の基礎を築いたとも言える九州遊学の後、彼は藩主の東行に従い、江戸へ向かう。江戸では桜田の藩邸を居所とし、安積艮斎、山鹿素水、古賀茶渓、佐久間象山らに従学するのだが、松陰を満足させる師にはなかなか巡り会えずにいた。しかし、この時期、松陰は江幡五郎、来原良蔵ら同年代の友人達と出会い、それに九州遊学で知りあった宮部鼎蔵を加え、彼らは酒を酌み交し、志を語り合ったという。松陰の人生における最も楽しい時期でもあった。

 その後、前述した通り、松陰は脱藩し、友人らと東北旅行に出ている。松陰の亡命を知った藩主敬親は残念がり、父に内命して十ヵ年諸国遊学の願を出させた。直ちに、許可がおり松陰は瀬戸内海から畿内にかけての遊学に旅立った。そして再び、松陰は江戸へと向かうのだった。

第二回江戸遊学

 江戸遊学において唯一、松陰の命運にかかわる師と言える人物が、佐久間象山である。後、松陰が海外渡航を企てるに至ったのは、象山の示唆によるところが大きい。

 嘉永六年六月三日、ペリーが四隻の米艦を率い浦賀に来航した。松陰がそのことを知ったのは、翌四日のことである。松陰は江戸より夜を徹して浦賀まで歩き、翌朝、象山とともに黒船を見た。その光景は行動家松陰の憂国精神を燻るに充分過ぎる程の衝撃であった。松陰は、その憂国精神を押さえることが出来ず、浪人の身にありながらも兵学の立場から「將及私言」(しょうきゅうしげん)をはじめとした急務策を次々と藩主に提出するのだった。周りは彼のこの挙を越権行為とし誹謗するのだが無論、それも覚悟の上のことであった。

 その後、松陰は象山の進めで、異国の文化や兵学を学ぶべく、長崎に停泊中のロシア船に乗り込もうと長崎へ向かう。しかし、松陰が到着した時には既に、ロシア船は出港したあとであった。こうして最初の渡航計画は未遂に終わる。

佐久間象山




下田渡航事件

 安政元年一月、ペリーが再び来航し、幕府はアメリカの要求するまま下田、函館を開港した。翌年、三月、松陰は、再度の海外渡航を企てる。海外を知り、日本の将来採るべき道を探ろうという、やむにやまれぬ決断であった。この時、松陰の計画を知り、強行に同行を迫ったのが、金子重之助である。重之助の情熱溢れる言葉に折れた松陰は、彼の同行を認めるのだった。

 三月二十七日深夜、二人は小船で米艦ポーハタン号に乗り付けた。だが、松陰らの必死の面会要求にもペリーは、それに応じる事は無く、計画は失敗に終わるのだった。

 その後、帰された二人は下田奉行所に自首し、通りに面した獄に入れられた。しばらくして、一人のアメリカ士官が獄の前を通りかかった。その時、彼はそこに死を覚悟し毅然たる姿勢の松陰を見るや、その姿に感動し、ペリーに報告した。ペリーは松陰らの救済を図ったのであったが、その時すでに江戸伝馬町の獄へ送られた後であったという。

 江戸には二人を煽動したという事で逮捕投獄された師象山の姿があった。二人が米艦に乗りつけた小船が後、発見され、そこに証拠の品が残されていたのだった。

 この松陰らの国禁を犯した大胆な行動はいちはやく海外に報じられた。フランスの新聞によると、「勉強のためアメリカへつれて行ってくれと、頼む青年を頭ごなしにはねつけ、また帰れば死刑になるとゆうけなげな申し入れに応じなかった米国提督の頑迷はじつになげかわしい」と米国を非難している。また、「ジーキル博士とハイド氏」を著した英国文豪のスティーブンソンが明治十五年に著した人物評論の中で、「このような広大な志を抱いた人々と同時代に生きていたことは、歓ばしいことである。宇宙の比率からすれば、わずか数マイル離れた所で、私が日々の課業を怠っている間に、吉田は眠気を覚まそうと自ら蚊にさされ、自分を責めさいなんでいたのだ」と、述べている。

 歴史に「もしも」は無いのだが、もしも松陰らの渡航計画が、この時、成功していたならば、以降の日本史は現在あるかたちとは、大きくかけ離れたものとなっていたに違いない。松陰が、これ以降たどる人生は日本史に多大な影響を与えてゆくこととなるのである。

 野山獄の松陰

 国禁を犯した罪人となった松陰と重之助は、国許での蟄居ということとなり、籠で萩に護送されることとなった。師、象山もまた同罪となり信州松代へと送られたのだった。

 萩へ着いた松陰は野山獄へ、重之助は岩倉獄へと獄を分けられた。野山獄には、女囚高須久子を含め11人の在獄者が独房に起居しており、彼等の多くは、それぞれが罪を犯しているとは言え、裁きで決まった年限を過ぎつつも親族から厄介払いされた形で、そのまま在獄しているのだった。

 彼等は出獄出来るあても無く、希望を失っていたが、松陰入獄後、しばらくして獄舎は一変する。松陰は、読書ざんまい(在獄一年二ヶ月の間に六一八冊もの書物を読んだ)の生活をおくりつつ「孟子」の講義をはじめ、自身の体験談、世の情勢といった講義を囚人達に聞かせていた。ある時、優れた書風を有する富永弥兵衛に書の講座を開くことを促すと、やがて、富永はこれに応じた。次に松陰は、句を得意とする吉村善作に俳句の指導を提案した。これらの講座がいくつか出来あがり、獄舎はあたかも学生達の集う研究会の如く様相を呈してきた。このようにして、松陰は囚人達に、できることから皆ではじめようと提起し、互いに相手の優れたものを学び、教え合うという連帯感を築き上げたのだった。囚人達は次第に、生きる希望を取り戻したかのように、生き生きとするようになった。また司獄官の福川扉之助までもが松陰の弟子のようなものとなり、これに協力し、自身も廊下に正座して松陰の講義を聞くという具合であった。

 獄中を福堂に変えたとも言える松陰は、在獄一年二か月の後、病気療養の名目で出獄した。その後、彼は藩政府と交渉し、囚人七人の釈放に成功している。他に類を見ない獄中教育の集大成をここに開花させたのだった。

松下村塾

 出獄後、父の元での蟄居を命ぜられた松陰は、初めのうちは親戚の者達に対し講議を聞かせたりしていた。しばらくして、噂を聞きつけた近隣の若者達が集まるようになり、松陰は彼等に講義を行うようになった。これが、今に伝わる松下村塾である。松下村塾は最初、叔父の玉木文之進がはじめた寺子屋風の私塾であったが、その後外叔久保五郎左衛門、そして三代目として松陰が引き継いだのである。いずれも無報酬であった。

 松陰は、身分や職業に拘らない平等感と人間の可能性に期待しつつ彼等に接したのだった。入門を求めてきた若者に対し、「師として充分に教えることが出来るかどうかわからないが、一緒に勉強しましょう」と、丁寧に挨拶したという。ここでの松陰は、単なる知識としての学問ではなく、理想の国家、正しい政治とはどうあるべきか、また人間としてどう生きるかを全身全霊を以って説いたのだった。

 次第に弟子の人数が増え、翌年十一月、宅地内の小舎を改造して弟子たちの為の部屋を増築した。僅か八畳一室の小さなものだが、ほとんど弟子達と松陰の手作りのものである。師と弟子達が共に汗を流し、自分達の学び舎を作り上げてゆく光景を想像すると、現代教育には無い、理想教育の本質を垣間見るような気がする。

 松陰は塾生に対し、「学者になってはいけない、人は実行が第一だ」と、よく言っていたという。机上の空論ではなく、自らが死線を踏み、その行動をもって築き上げた教えに、心を動かされぬ者などいなかった。ここで教えを受けた数多くの若者が師の志を引き継ぎ、幕末動乱の世に巣立っていったのである。

       

野山獄跡

野山獄・岩倉獄略図

       

松下村塾

松下村塾講義室




憂国心

 松陰は幽囚の身にありながらも、彼自身の気魄は決して衰えることはなく、彼の信念に伴う計画は過激さを増してきたのだった。

 安政五年、大老に井伊直弼が就任し、反幕勢力を一掃せんとする、いわゆる安政の大獄が、始まりつつあった。八月、井伊の命により老中間部詮勝が京都に着くや、朝廷にはびこる反幕勢力を一掃すべく画策をはじめた。幕府に恐れをなした朝廷や公家、及び藩大名に対し、松陰はこれを痛烈に批判し、支配者階級による変革が不可能であることを実感する。

 その後、松陰は京都に捕らえられている梅田雲浜を救い出そうとするが失敗し、また公家の大原三位を迎え、藩論を倒幕に統一しようとするもこれも失敗に終わる。また、松陰は次第に幕府による反幕勢力弾圧が激しくなるにつれ、幕府の暴政許せじものという思いが募り、老中間部詮勝襲撃を企てる。ところが、松陰は理念と情熱が先行し、計画の成功率がほとんどゼロに等しい。さらには計画に伴う現状認識が甘く、藩の要人、周布政之助に幕府の老中を襲撃すべく武器の援助を申し入れた事などその表れである。松陰の良き理解者であった政之助もこれには驚き、松陰の暴挙を阻止せんと、再投獄を命じたのである。

再投獄

 再度、獄中の身となった松陰は門下生に対し書状で老中襲撃計画の実行を促すも、江戸にいる高杉、久坂らの連名で、計画を中止するよう勧告する書状が届いた。時期尚早を唱える高杉、久坂ら対し、松陰は「僕は忠義をするつもり、諸友は功業を為すつもり」と、その所見の違いから絶交を言い渡すのである。

 高杉、久坂ら門下生達は、この松陰の過激さには手を焼き、指示を受け付けなかったが、入江杉蔵(九一)、野村和作(靖)兄弟ら門下生のうち数人は松陰の右手となり、計画の実行者として行動を起こすのだった。しかし、そのことごとくが失敗に終わり、松陰は獄中で絶望の淵に陥り、死をも想ったという。やがて、松陰の心も次第に、落ち着き絶交状態であった高杉らとも書簡のやりとりをするようになった。そんな折、幕府より松陰に東送の命が下るのである。

東送

 松陰東送の容疑は安政の大獄で処刑された梅田雲浜との関係についてである。松陰が東送の命を聞いて考えたのは、この際、尊攘の大儀を法廷で説き幕政転換に役立てることが、藩のためとなると、いうことであった。むろん、死は覚悟の上である。

 東送に際し、諸友あての手紙に、「余に一護身符あり。孟子曰く、『至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり。』と。これ是れのみ。諸友、是れ之れを記せよ。」と書いている。むしろ、松陰は東送を喜んでさえいたのだった。世は安政の大獄の嵐の最中、松陰東送以降、彼が故郷の土を踏みしめることは、二度と無かったのだった。

 東送の折、腰縄を打たれ護送の籠にのり萩を出発した松陰は、故郷を最終的に見渡せる地にある、とある松の木のかたわらで一首を詠じた。「帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしおぬるる涙松かな」。ここには現在、涙松の碑が立ち、二度と帰ることのない故郷を見納めた松陰の心境がしのばれるようである。

       

吉田松陰肖像

涙松の碑

涙松の碑説明



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幕府評定所

 安政六年七月七日の朝、幕府評定所に送られた松陰に対する容疑は、梅田雲浜との関係、京都御所の庭に落ちていた幕府中傷の落とし文が彼のものか、の二点であった。松陰は、この二点に関しては、きっぱりと否定している。事実、雲浜との間に蜜某があるわけでもなく、落とし文についても松陰の関知するところではなく、そのような卑劣なことをする人間と見られたことに、松陰は憤慨したという。

 このまま、評定が終了していれば死罪になるようなことは、まず無かったであろう。ところが、松陰自身がこの評定をそのまま終わらせなかった。今こそ、自分の所信を唱える良い機会であるとし、ペリー来航以降の自身の奔走について語りはじめたのだった。事もあろうに幕府評定所で、幕府老中の暗殺計画や、公家の大原三位を迎えて倒幕計画を練ろうとしたことなどを問われもしないのに延々と語りはじめたのである。あまりの事の重大さに評定所役人は唖然としたという。

 至誠を持ってすれば人は動く、といえども相手は幕府権力である。一般的に考えれば侠気の沙汰としか思えない。しかし、松陰の疑うことを知らぬ純真さがこのような行為を取らしめたと言ってよいであろう。また、これこそが、松陰が今もって尊敬を集め、不朽の存在たらしめるゆえんでもある。

留魂録

 公儀をはばからず不敬のいたりと判断された松陰は死罪に処せられることとなった。当初、奉行の原案は流罪であったのだが、井伊直弼はこれを死罪に書き改めたという。

 松陰は、処刑の二日前、取り調べの過程、心境の変遷などを述べた、「留魂録」を書き留めた。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」、巻頭のこの歌より「留魂録」と名づけられたものだろう。この中で松陰は、「自分がいまわずか三十で一事成ることなくして死んでゆくことは、いかにも惜しいようではあるが、この三十年の間に実は充分四時は備わっていた。もし同志の士が私の志をよしとして継承してくれるのならば、後々まで私は生き続けたことになる」と言う。

 誠をもって幕史を動かそうとした為に、死罪となる松陰のこの精神は門下生をはじめとした同士に対して、しっかりと継承されゆくことを松陰はこの時、既に実感していたに違いない。

松陰処刑

 安政六年十月二十七日朝、松陰は評定に呼び出された。呼び出しの声を聞くや懐紙に句を書きとめたが、第四句の字数が足らないのに気がつき、修正を図ったが、横に「、」をうったまま、警吏に引き立てられなければならなかった。その時の句は「此程に思定めし出立をけふきくこそ嬉しかりける」。

 同日午前十時、小塚原刑場にて、処刑が執行された。松陰、二十九歳四ヶ月の生涯であった。

吉田松陰とは

 松陰の死後、「留魂録」に書き留めた通り、彼の志は決して朽ちることなく同志達に継承されていった。そして、松陰の志を引き継いだ多くの志士達が、明治維新を見ずして散っている。しかし、彼ら志士達の命を賭けて達せられたといってもよい明治の世は、松陰の理想とする世とはあまりに、かけ離れていたと言えるだろう。

 松陰は尊王家ではあるもののあくまで人民による革命によって人民の為の世を築きたいと望んでいた。それは、松陰の最終結論とも言える次の言葉にあらわれている。「天朝も幕府もわが藩も要らぬただ六尺の徴躯(びく)が入用」。松陰ははるかに先を見ていたようである。


     完






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