あとがき


 まず、私の作りましたホームページを御覧頂きありがとうございます。最初に申し上げたいことは、私は、さほど歴史に造詣の深い人間ではありません。単に、一歴史ファンが趣味の一環として作ったホームページですので、見ている方が不快になるような言いまわしや、史実を誤って記していないとも限りません。最初にお詫び申し上げておきます。

 このホームページを作るにあたり、考えましたことは私の好きな人物であり、かつ学ぶべき点が多いと感じている吉田松陰を中心としたホームページを作りたいということでした。松陰の他、四人の人物は、そのいずれもが松陰に感化され、短い生涯を閉じた人物達です。この人物達の中で、金子重之助を除く、他の三人は名だたる松下村塾門下生のなかでも四天王と称された人物達です。となると、あと一人の入江九一はどうしたのか、と言われそうですが、九一のページを作成するには、あまりにも資料が足りず、つまりは勉強不足であるということが本音です。しかし、いずれは追加したいと考えています。(九一のページを作りたいと考えておりましたが、九一に関する資料そのものの存在が極めて稀薄な為、非常に困難です。とりあえずは、無期延期といたします。)

 吉田松陰のページを作るにあたり、彼の人生をどのようにして1ページに表現するか考えながら作りましたが、かなり端折った部分が多くあると思います。とりあえず、自分なりに松陰のひととおりの人生がわかるよう作ったつもりですが、興味を持たれて詳しく知りたいと思った方は私が紹介した参考文献などを読んでみて頂ければ、尚一層、松陰の魅力がわかると思います。松陰はその生涯において三度、「猛」を発したといわれています。「猛」とはどのような意味があるのでしょうか。松陰は渡航計画が失敗に終わり、萩の野山獄に投獄されたとき、二十一回猛士説を説き、自身の別号を「二十一回猛士」としました。夢の中に神人があらわれ、一枚の札を差し出し、そこに「二十一回猛士」と示されていたといいます。また、杉家の「杉」の字、また「吉田」という字から二十一という数を導き出し、また自分の名の「寅」より、「二十一回猛士」と名乗ったともいいいます。( 原文は「杉の字二十一の象あり、吉田の字も亦二十一の象あり、吾が名は寅、寅は虎に属す。虎の特は猛なり、吾れ卑微にして孱弱(せんじゃく)、虎の猛を以て師と為すに非ずんば、安んぞ士たることを得ん」 )こう名乗り、松陰が考えてみると、自分自身で納得できるほどの勇気、猛気を奮い立たせて事に当たった例は、彼の人生において三回しかないことに気がつきます。一回目は、友への義の為、脱藩し東北旅行に出たこと。二回目は、脱藩した身にありながら、藩主に向かって抗戦攘夷の戦術書を堂々と差し出したこと。そして三回目は、言うまでも無く、国禁を破り海外渡航を企てたこと。そのいずれもが罪を得ることになったのですが、松陰は、そんなことでは足りない、あと十八回、猛然と勇気を奮い起こして事に挑まねばならないと、決心するのです。しかし、松陰の生涯における「猛」はこの三度とされています。残る十八回の「猛」を松陰自らが発することは出来なかったのですが、松陰の死後、彼が育てあげた松下村塾門下生達は師の志を引き継ぎ、数々の「猛」を発してゆくのです。

 このなかで、異色と呼べる人物は、やはり金子重之助でしょう。重之助は松陰が、「用猛第三回」と自ら言う、渡航計画を松陰と共に実行した人物です。松陰あっての重之助であり、重之助自身が単独で取り上げられることはまず無いと言ってもいいでしょう。しかし、彼を松陰の渡航計画に同行しただけの人物として見られることはあまりに寂しい思いがしました。そこで、彼を主役にしたページを作ってみようと思ったのですが、やはりどちらが主役なのか、わからないページになってしまいました。しかし、彼のあまりに悲惨な最後はわかってもらえたのではないかと思います。松陰と出会わなかったならば、また違った人生をおくったであろう重之助ですが、松陰と出会ったがため、悲惨な最後をむかえるにいたったと言ってよいでしょう。しかし、重之助がこれを後悔するようなことは万にひとつも無なかったはずです。なぜなら、松陰と出会い、また共に死線を踏んだが故、重之助にとって生涯唯一の猛をここに発することが出来たからです。

 村塾四天王のなかで、最も早く命を落としたのが吉田稔麿です。幕末史において稔麿の名前が出てくるのは新撰組による池田屋襲撃において、討ち取った長州尊攘派の代表格として、登場します。足軽の家に生まれた稔麿は自らの努力により才を磨き、本当にこれからという時の無念の死だったと思います。その最後は稔麿のページでも触れたように避けようと思えば避けられる状況にありながら、松陰の指摘する稔麿の資質というものが、そうはさせなかったのです。何とも残念な死でありますが、それこそが、今日まで、稔麿が好かれ、語り継がれているゆえんであると言えるでしょう。

 久坂玄瑞は松下村塾門下生の中でも高杉晋作をも凌ぐ、第一等の人物として松陰から評価されたことは、玄瑞のページでも触れました。松陰は玄瑞には「晋作に学べ」、晋作には「玄瑞に学べ」と、ふたりをライバルとしてあおりたてていきます。しかし、ふたりは互いが相手を認め合い、晋作を最もよく理解していたのも玄瑞なのです。長州尊攘派の中心となり活躍していた玄瑞に比べ、尊攘活動の折、気ままな行動で不在の人となった晋作を玄瑞は「晋作は地位もあり、識見や能力もある男。数年間学問をし、そのあとで存分に国の局面を変えてくれることを願っている」(入江杉蔵宛書簡より)と、真に晋作への理解を示しているのです。晋作の後の活躍も玄瑞がいたからこそと、言えるのでしょう。また、玄瑞は、村塾門下生の先頭に立ち、彼らを引っ張ってゆきました。彼はリーダー的資質が充分にあり、我を貫き通すようなことは無いため人望を集めることが出来る、と松陰は言っています。最後においても玄瑞は、我を通さず大勢のおもむくままに従い、無念の死をとげてしまったのす。

 最後に高杉晋作ですが、松陰同様、まだまだ書き足りないくらい晋作の逸話は、多くあります。興味を持たれた方は私が紹介している参考文献のほかにも晋作について書かれた本は多くありますので読んでみてください。晋作の魅力は、その破天荒ぶりもさることながら、もっぱら気ままに、我が道を行くスタイルでいながら、やる時はやるといった、カッコよさがあります。晋作が、あれだけの大仕事を短い人生において達成し得たわけはいくつかあると思いますが、晋作には周囲が、「晋作のやることならしかたない」と思わせるに値する、何か人間の持って生まれたカリスマ性とでもいうべき資質を持ち合わせていたからと言えるでしょう。また、晋作が上士の身分として生まれてきたこともそのひとつです。晋作は奇兵隊を民衆より集め組織した張本人ですが、自身は古いタイプの武士であり、身分性そのものを否定することは決してありませんでした。奇兵隊は緊急時のやむを得ない産物であったのです。それが為、自身が周囲の人間達の上に位置する人間であると、自己認識することが人一倍強かったと、思えます。それがゆえ、周囲に気遣いすることなく己の欲するままに動き、周囲もまた晋作のやることなら認めざるを得なかった、と思えるのです。また晋作は、破天荒の中にも松陰の教えを忘れることは決してありませんでした。無駄死にを避けるべく、逃げ回ったこともそうですが、松陰同様、死を決して事に及んだ事、数知れません。そのいずれもが、晋作自身の持つ資質との融合により成功をなし得たと言えるでしょう。最後に、晋作は窮地に立たされた長州藩を救った英雄ですが、彼には「英雄色を好む」という言葉もピタリとあてはまります。

                     おわり


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